『一節切尺八』 相良保之(明暗真法流・一節切研究家)
鎌倉時代の『教訓抄』(1233年)に、「短笛ハ尺八云。今ハ目闇法師、猿楽吹之」とあります。次の室町時代の目闇法師、猿楽師たちも、後に一節切尺八と呼ばれる一節五穴の短い尺八を吹いていました。この二つの短い尺八を吹いている人達の顔ぶれを見ると、明らかに雅楽尺八とは異なる和製の尺八のようです。
中世の尺八・一節切は、数世紀にわたって庶民や将軍、天皇たちが共に親しんだ楽器です。楽家の豊原家は代々、天皇や足利将軍に笙を教えた家系で京都・賀茂神社の一節切の家元的な存在でもありました。豊原家では、雅楽笛に共通する親近感を一節切に抱いていたのでしょう。豊原統秋の『体源抄』(1512年成)に、賀茂切尺八を伝えた量秋の設計図が残されています。
また、山科教言の『教言卿記』(1408年3月25、27日付)には、賀茂神社の神官三名が足利義満公と後小松天皇の饗宴の席に招かれ、終夜一節切を吹く等、賀茂神社の一節切は既に、そうした晴れの舞台に相応しい能力と実績を兼ね備えていました。
当時、一節切の拠点であった時宗・霊山正法寺に帰依していた後小松天皇の実子、一休和尚が一節切に親しんだのも、あるいは親譲りだったのかも知れません。
一節切は戦に明け暮れた応仁の乱(1468~1479年)の最中でさえ、連歌師・心敬の目には“万人が吹き侍る”と映っていたようです。水墨画の雪舟が、絵筆を執る前に一節切を吹いたのもその頃の話です。
一節切はノコとキリと小刀さえあれば、誰でも簡単に作れます。素材は日本の野山に群生する真竹です。庶民たちは、自分で作った一節切を手にして、遊び楽しんだことでしょう。
本能寺の変以後、一節切の研究に没頭した大森宗勲(1570~1625)は、後陽成天皇の勅命で五調子の一節切を献上して声望を高め、仁和寺・三井寺・妙顕寺の僧侶等から習得した「手」と呼ばれる70曲余を曲譜化し、宗佐流楽譜本を世に出して中興の祖と呼ばれています。自筆本が陽明文庫に、写本の『短笛秘伝譜』(1608年)、『尺八相傳集』(1624年)等が東北大学狩野文庫に収蔵されています。
中村宗三の『糸竹初心集』(1664年)が出版されると、一節切は流行り歌の「よしのゝ山、海道くだり」等の琴・三味線との合奏楽器として持て囃され、西鶴の本には一節切を吹く女性たちが登場し、元禄時代には全盛期を迎えました。
しかし、間もなく三節切尺八や、製管技術で豊かな表現力を獲得した虚無僧尺八が台頭して来ると、一節切は一気に衰退し、中津藩の医師・神谷潤亭等が再興を計りましたが、態勢は挽回せず廃絶に至りました。
それにしても一尺余の細く脆い竹笛の音が、よくぞ乱世の中世時代を吹き抜けたものです。あれから二世紀、寺院や博物館にひっそりと横たわっていた一節切が、再び歴史の表舞台に甦ろうとしています。あのシンプルで清澄な音色に魅かれた人たちが、一節切を吹き始めたのです。
初手(ショテ)
こだわりの無い自由な心で、川を流れ下る舟のように軽やかに吹き、打出シ、カスリ、折、ヲドル、ユリ等の基本奏法を学ぶ。
安田(ヤスダ)
江州(滋賀県)大津の安田という尺八家が吹き始め、一節切宗佐流の祖・宗佐に伝えた曲。宗佐流では「筒手巾」曲と並ぶ重要な曲。
手巾(シュキン)
江州(滋賀県)の刀磨ぎ師・浄朝は尺八(一節切)が好きで、刀を磨ぐ間もなく手を拭いては尺八を吹いていた。刀磨も尺八も上手ではなかったが、その手拭きから「手巾」と名付けられた。